「賢い」がアイデンティティの中学生が、それを証明し、確固たるものにするために偏差値の高い高校を目標にする。そこにはだいたい同じ学力の人がいて、優劣がつく。賢いことが自分の定義だったのにそれを否定される人が出てくる。そこでどう振る舞えるかが人として問われるところだよね。

自分のアイデンティティを賢さに執着するのか、他の個性を自分のアイデンティティとして組み込もうとするのかで人生の楽しみ方が変わると思う。当然後者のほうが愉快に生きられると思う。が、進学校は成績第一みたいな空気を作るから、他のことに踏み出せないで劣等感を募らせてしまいがちだと思う。


補足していく。


これイエスタデイをうたってを思い出して考えたんだけど、賢さ以外にも画一的なアイデンティティにすがるケースはあると思う。
イエスタデイをうたってでは「絵の巧さ」だったけど、例えば俺なら「情報」とかになるのだろう。
それを確かにするために、アイデンティティのゴールにするために劇中では美大を目指し、俺の場合ではIT系の大企業を目指したのかもしれない。
でもその中にはやはりその分野においてデキる人が集まってるわけで、当初の目的にしていた事柄(賢さ、絵の巧さ、情報技術)のみをアイデンティティにデキる人はほんのひとにぎりにすぎない。
じゃあ何をアイデンティティにするかと言ったら、+αを加えていった個別の何か、なんじゃないだろうか。
この+αを形成するには個人の力もさることながら、環境も影響してくると思う。
前述のバリバリ進学校(特に私立かな)の高校生なら+αを形成することを許さない風潮があるんじゃないだろうか。
これは良くない。アイデンティティを形作ることが人の成長だとするなら、成長を妨げているといえる。

じゃあさらに高校生が大学生になったケースならどうだろうか。
賢さ、あるいは絵の巧さをアイデンティティとしていたとしても、大学では必ずしもそれのみを求めない自由がある。
この自由が+αを許すのではないだろうか。

では大学生から社会人になったらどうなんだろう?
大学とは打って変わって成果を求められる分仕事の中に自由は少ないのではないだろうか。
でももう大人だし、環境ではなく自分の力で+αを築いてくことができるはずだ。

そこに今気づけたのは、ちょっとした光明かもしれない。